投稿日:2008-09-04 Thu
こちらはかなり老舗のサイトで、ご存じの方も多いでしょうが嘘八百
サイト名でだまされるなかれ、かなり内容は濃いです。
お奨めなのは当然「大友家伴天連騒動記」
かなりの長編で、読むだけで時間がかかると思います。大友家中心ですが、九州の戦国時代、果てはキリスト教と日本の関わりを考えるのにお奨め。
ゲームの2次創作ですが、元ネタが分からなくても十分理解可能です。
こちらは、今ネットで話題になっているのでご存じの方が多いと思いますが
やる夫が徳川家康になるようです あんそくVIP やる夫見聞録
実はまだ関ヶ原の合戦に到達したところで完結していません。また、実際の掲載は別の場所で行われているのですが、そこはサーバがあっぷあっぷでアクセスが増えると苦しいらしいのでリンクは貼りません。
一応、ベースはあの山岡荘八『徳川家康』
こちらはモデルになっているアスキーアートの元ネタが分からないと余り笑えないかも知れません。
拙関連サイトもよろしくお願いします こちら 最近停滞中ですが(汗)。
投稿日:2008-07-18 Fri
たぶん40代以上の人には非常に懐かしい千葉真一(現:JJサニー千葉)主演『柳生一族の陰謀』をBSフジで再放送している。この作品で柳生十兵衛=サニー千葉!
というイメージが固定化した人は多いであろう
そして
柳生十兵衛=片目+ボンバーちょんまげ
という誤ったイメージも…(-_-;) ※柳生十兵衛三厳が片目というのは根拠がないらしい 参照こちら
昨日放送したのはこちら
7月17日(木) 20:00〜20:55http://www.bsfuji.tv/top/pub/yagyu.html
第十二話「南海の女狐」
薩摩藩・藩主が重病という情報が流れた。十兵衛と裏柳生の精鋭たちは事実を確認するため薩摩藩に忍び込むが…。
薩摩藩・藩主の島津家久(村居京之輔)が重病との情報が流れた。薩摩藩は、よそ者の進入を厳しく取り締まっているため、宗矩(山村聰)は十兵衛(千葉真一)と裏柳生の精鋭たちを、事実探索のため薩摩藩に忍び込ませる。裏柳生の精鋭たちは、薩摩城中に忍び込み、家久の生存を確認。そして病床の家久が、飲まされている薬を手に入れる。薬を調べると、飲み続けると次第に心臓が弱くなり、あたかも病死であるかのように絶命する南蛮渡りの珍しい毒薬であることが判明する。十兵衛は、手引き役の太吉(牧冬吉)に心当たりを聞くと、城代家老・新納武蔵守(永野達雄)と次席老中・伊集院頼母(水島道太郎)が跡目を巡り対立していることを知る。新納は側室である妹・お万(森秋子)の子を推し、伊集院は正室の子を推し争っているという。
【再放送】
7月24日(木) 10:00〜10:55
薩摩藩の陰謀!!!…というのはサニー千葉JAC柳生物の典型的お決まりネタではあります。そしてドラマ自体も
寛永年間なのにおねーちゃん達は島田髷結ってるし ※島田髷は寛文年間頃誕生
薩摩藩御用商人とか言う人(ちなみに演じていたのは『仮面の忍者赤影』の白影役の人)の格好も戦国の気風が残っている寛永の着物じゃなくて、どう見ても『必殺』(ちなみにこちらの時代設定は文化文政〜幕末辺りらしい)の悪徳越後屋さんそのものなんですがヾ(^^;)
…このようにつっこみ所は満載なので、気にしなーいえんたーてーめんとー(^^;)…と割り切るのが『柳生一族の陰謀』の鑑賞法なのであります
が
今回の話には、実は、全くの嘘でもない話が混じっております。
例えば
(1)島津家久の跡目を巡って争いがあった
というのは事実です。今回の話では
・正室の息子:又三郎
・側室の息子:松千代
となっていますが、史実では、跡目を争った側室の息子は「松千代」じゃなくて「又四郎忠平」です。
※実は島津家久には松千代丸という子も実在、ややこしい…
それと側室の名前は「新納お万」とこのドラマではなっていましたが、
史実では又四郎忠平の母は鎌田政重という下級藩士の娘(名前は不明)、松千代丸の母はやはり下級藩士・牧胤親の娘(やっぱり名前は不明)となっております。
もう一つ付け足しを言うと、
このドラマでは、又三郎に次席家老の伊集院頼母が、松千代に伯父に当たる新納武蔵守がついて争いが加速…という設定になっていました
が、
この時代の薩摩藩主席家老は伊勢貞昌という江戸家老であり、新納武蔵守という人物も実在していますがこの当時は家老じゃないです つか故人(爆) 参考 こちら
(2)ドラマ最後で「又三郎が江戸に人質に出されることとなり、松平伊豆守も薩摩藩の取りつぶしをあきらめた。そしてこれが参勤交代の始まりとなったのである」と流れたナレーション
実はこれがほぼ史実だったりします 恐るべしJAC恐るべし千葉恐るべしカンテレヾ(^^;)
この辺りの話は「薩藩旧記雑録後編」(『鹿児島県史料』)にそのままの記述が出てきます。
但し、江戸に跡継ぎを人質に出していた大名はこれが最初ではなかったようで、「このことが参勤交代の嚆矢になった」…という島津家の主張をそのまま受け取るかどうかは考察の余地があります。
実はここまでの話は 前置き。
本日、このような記事が東京新聞に載っていたようなのだが
視聴率は『利家とまつ』超え NHK大河 『篤姫』快進撃続くhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2008071502000108.html
2008年7月15日 朝刊
(中略)
NHK担当ディレクター「『篤姫』はホームドラマ」
NHKの大河ドラマ「篤姫」(宮尾登美子原作)が好調だ。
十三日の平均視聴率は番組始まって以来最高の26・2%(ビデオリサーチ調べ、
関東地区)をマーク。
同日まで二十八回放送分の平均視聴率も23・2%で、二〇〇〇年以降の大河
ドラマでは最高の「利家とまつ」(02年)の22・1%を上回っている。
「過去の大河ドラマを分析した」。
NHK制作局の佐藤峰世エグゼクティブディレクターは“勝因”をこう語る。
大河ドラマは局の看板番組であり比較的高い視聴率を維持してきたが、
「翔ぶが如く」(司馬遼太郎原作)や「獅子の時代」(山田太一脚本)など幕末・明治維新
を扱った作品は質が高くても視聴率は伸び悩んだ。
そこで「篤姫」では、波乱に富んだ彼女の生涯に絞った。
薩摩・島津家の分家に生まれた於一(宮崎あおい)が、将軍・徳川家定(堺雅人)の
正室・篤姫となり、やがて大奥の総帥・天璋院となるまでを描く。
幕末・明治維新を語るのに避けて通れない長州藩の動きなども大幅カット。
ストーリーをシンプルにした。これが功を奏したとみられる。
佐藤ディレクターは、「『篤姫』はホームドラマ」と言い切る。主人公の篤姫を中心に大奥
という「家庭」のゴタゴタを描いているためだ。
登場人物の言葉遣いも平易。これまでの大河ドラマより身近に感じられる。
視聴者は女性、特に四十代が多いのも特徴。大学を卒業し、就職して結婚、そして出産。
一段落した女性たちが、これでよかったのかと人生を振り返る。
高視聴率の舞台裏で、制作側が苦労しているのは時代考証。
通常の大河ドラマの二倍の時間をかけている。というのも幕末・明治維新は時代が現代
に近いため、事前の調査などが不十分だとボロが出てしまうからだ。
「NHKは会長以下、『篤姫』の視聴率は低調と予想していた。秀吉や信長は誰でもが
知っているが、天璋院篤姫なんて誰も知らないから…」と佐藤ディレクター。
だがふたを開けてみればこの高視聴率。快進撃はどこまで続くか。
あまりにもつっこみ所な箇所を当方で太字で補足させていただきました。
時代考証に苦労してるって〜どんだけ〜(古?)
史実では
障害があり、しかも性格もゆがんでいたとされる13代上様・徳川家定がこの上もなく聡明で美形の将軍様(でも馬鹿を擬装したまま死去)になっていたり
「ナオゴロー」こと肝付尚五郎(現小松帯刀)が、小松家に婿養子に行くのが嫌だと殿様にタメ口叩くし、いじいじ愚痴愚痴と「篤姫様〜」と未練深いし
第一、決まり事に厳しい篤姫様が畳の縁踏んで歩いてるし、大奥脱走する割には、先週上様がお亡くなりになられたときには、何故飛んで会いに行かない、このど薄情女!
…これで、よく「時代考証に苦労してる」なんてどの口がほざいたんだか。NHKか?それとも東京新聞のごますり?
サニー千葉の『陰謀』のほうがフィクションと割り切ってるだけ、まだ視聴者に対して誠実だよ…。
投稿日:2008-05-20 Tue
「おまえそれで今まで良く会社勤めしてきたな」「おまえごときにこの会社継ぐ資格なんか無いわ」
…上司が部下を人格攻撃するいわゆる「パワーハラスメント」の典型的な言葉ですが、
これらは上司が私の夫に言った事実の発言でもあります。
問題はこの上司=夫の父(つまり今の言葉で言うところの「毒親」)であることで、問題がややこしく複雑になっている原因なのですが…
※「毒親」についてはこちらを
「パワーハラスメント」「パワハラ」についてはこちらを
これは実は今回の前置き_(。_゜)/で
こういうひどい目にあって、初めて理解できたことがあります。
幕末の日本をお騒がせした大事件に「お由羅騒動」(別名「高崎崩れ」)といわれる事件があります。
一般的には
父(薩摩藩主):島津斉興 vs 子(薩摩藩世子):島津斉彬
の親子対立に藩内の対立が絡まって、このような大事件になったものと理解されているかと思います。
この親子対立については藩主の権力に固執する斉興に対し、人並み以上に聡明且つやる気満々の斉彬に対して、いつまで経っても他藩なみに跡目を継がせないため、結果、巨大な親子喧嘩となったとして知られがちです。
しかし、この対立のものすごさは単に親子喧嘩と片づけていいのか理解に苦しむ部分がありました。どれくらいひどい対立状況だったかはこちらのブログでその一端が伺えるかと思います。
しかし、今回先述のようなパワハラを目の当たりにしたことで、この対立の根底にある物が少し理解できたように思います。
おそらく島津斉興は典型的な「毒親」だったのでしょう。
勿論斉興が斉彬に対して「おまえは駄目人間だ」「おまえなんかに鹿児島藩渡してなるものか」…と明言したという史料は当然残ってませんが(実際言っていたとしても恥ずかしくて残せる物ではないだろう事は容易に推測できる)、斉興と側室・お由羅の方の間に生まれた忠教(後の島津久光)の種子島氏養子縁組を一方的に破棄し、島津家に戻した文政8年(1825年)3月時点で、斉興の心の中は「島津家の跡取りは忠教一本」に固まったと考えられ、その中で、徳川幕府にも認められた世子・斉彬をいかに排斥するかと言うことに斉興の頭は一色になったと思われます。
但し、江戸時代も後期も大詰めで海外からごちゃごちゃいろいろお越しに為られてはいますがヾ(^^;)基本的には平和そのもののこの時期ですから
(1)斉彬を暗殺!
(2)斉彬を陰謀にはめて排斥!
…というのはかなり難しい。特に、正室(鳥取藩池田氏出身)出生で江戸生まれ江戸育ち、一橋家出身の正室を迎えて徳川家は勿論幕閣にも覚えのめでたい斉彬を廃嫡するのはそう簡単ではなかったと思われます。
そこで斉興がやらかした手段というのが、親子関係を楯に取ったパワハラではなかったか。
儒教全盛のこの時代、親に逆らうのは今以上に難しい物だったことは容易に想像できます。
戦後の学会では原口虎雄氏の『幕末の薩摩』(中公新書)のように「斉興:善 斉彬:悪」という考えのほうが主流のようですが(大河『篤姫』の原作・宮尾登美子氏の小説『天璋院篤姫』もそれに近い)、実際パワハラにあっている者にすれば、誰に言っても解決できないそのフラストレーションたるや相当なものがあったはずです。鹿児島藩崩壊すれすれの密貿易の密告をして、フラストレーションの親玉たる父・斉興を追い出そうとする気持ちは非常に分かります。だって私も舅をこの世のどこかにいるという「仕事人」という方に(以下自粛)
さて
「パワハラ上司」「毒親」に為られるこの世のゴミのような皆様にはある共通点があるのだそうです。
それは、「自己愛・自己中心主義」「毒親の親もまた毒親」ということ。
島津斉興にも…いました。自己中が激しい「毒親」が。
それは実の両親ではありません。なぜなら、実父・島津斉宣は文化8年の「近思録崩れ」で強制隠居・実権を失い、以後は江戸の芝の鹿児島藩下屋敷で世捨て人のような隠居生活を送らされる羽目になります。実母・鈴木氏は藩主の生母として鹿児島城に下り「御国御前」と言われてはいたものの実態は「敬して遠ざける」そのものだったようで、島津家の家族として認められ「御内証様」の称号をもらうのは何と60歳になってからでした。そしてこの両親は当然斉興とは早くに別れて暮らしています。実際に斉興の養育に幼いときから関わったのは祖父の島津重豪だったかと推測されます。斉興は世子として江戸在住ですし、重豪も隠居として江戸在住だったからです。この重豪は「蘭癖大名」として知られ、国元の財政状況を無視して浪費をし、娘・寧姫(広大院)が前代未聞の「外様大名出身の御台所」となった権威を笠に着て「高輪下馬将軍」と言われて様々な大名から賄賂を取っていたという伝説もある曰く付きの殿様です。その逸話はさておき、「薩藩旧記雑録」などに残る史料からも、その傲慢自己中ぶりは手に取るように伺えます。
さて、この重豪が曾孫の斉彬をかわいがっていたというのはシーボルトの日記などからも判明するのですが、重豪と斉興の間がどういうものだったかは伺える史料を寡聞にして見かけません。しかし、重豪と斉興の父・斉宣との中は「近思録崩れ」で分かるように険悪な物でしたから、斉宣実子である斉興に対しても重豪の風当たりは冷たい物だったのは容易に推測できるのではないでしょうか。もしかしたら、始終斉興実父・斉宣の悪口を重豪は斉興に吹きかけ、斉興を精神的虐待していたかもしれません。斉興にとって重豪はまさしく「煙たい毒親」そのものであったに違いありません。
そして、皮肉なことにその重豪が溺愛したのが斉興の長男・斉彬だったわけです。重豪が亡くなったあと、その恨みが斉彬に移っていったのもまた自然な経緯であったでしょう。
ところで。
大河『篤姫』関連で幕末大河研究家としてあちこちで名前が出てくるようになった芳則正さん、『島津重豪』(吉川弘文館人物叢書)という、島津重豪に関する研究書を出してられるのですが、そこでページ数は失念しましたが重豪のことを「名君」と書いてらっしゃるんですよね。でも、重豪こそ島津家に禍根を残した問題のバカ殿のような気がしてならないんですが…。まあ、そのバカ殿がいなかったら、幕末の四賢候のひとり・斉彬の誕生もなかったわけですけど…。
にしても毒親の存在が幕末の日本を生んだというのは余りいい気分ではありません。
投稿日:2008-05-15 Thu
世間では高視聴率らしいですが。史実とは当然かけ離れ
宮尾登美子の原作も破壊しまくり
歴史マニアとしてはいいところ無しの
暴走中の大河『篤姫』
しかし、こういう新発見?がありましたのでそれなりの効用はあった んでしょうかねぇ
篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=10654
鹿児島市の招魂墓に記録
(2008 05/15 07:42)
篤姫付老女「幾島」の生没年や出自などが書かれた招魂墓=鹿児島市唐湊2丁目
篤姫(天璋院)が島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島(いくしま)」の招魂墓が、鹿児島市唐湊2丁目の唐湊墓地に残っていることが14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報がそろうことで、幾島の実像に迫ることができる」と話している。
墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1.2メートル。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島は1808(文化5)年6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。70(明治3)年4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬られた。父は薩摩藩で御側用人(おそばようにん)を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京都の公家近衛家に嫁いだ郁(いく)姫の女中となった。
招魂墓は朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん(56)=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島の招魂墓に気付いた。幕末の絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。
同家の子孫、朝倉康光さん(59)=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。みなさんに広く見てほしい」と話している。
『翔ぶが如く』では樹木希林の快演(怪演?)で強烈な印象を残し
『篤姫』では篤姫を特訓する鬼軍曹ヾ(^^;)…のはずが単なるギャグ要員におとしめられている印象がありますが、
史実では大奥で孤軍奮闘する篤姫を支援した重要人物(だから『翔ぶが如く』のイメージに近い)であったにもかかわらず、どうも病気で明治維新になる前に篤姫の元を去り、以後消息不明となっていたため、生没年はおろか実名も実家の苗字も未詳という謎だらけの人物だったわけです。
どうもお墓の持ち主はこの事実を知っていながら、わざと(めんどくさかったから?)公に公表されなかったような印象を記事から受けますが、これがきっかけとなって謎だらけの幾島の残りの半生にスポットが当たれば非常にいいことではないかと思います。
ちなみに本墓は東京の大円寺(島津家の江戸での菩提寺)にあるという記述から見ると、篤姫の元を辞してからも島津家の世話となって江戸暮らしであったのではと推測されます。またこの本墓は今は消滅した可能性が高いと思われます(その根拠についてはこちらのブログ 1 2をご参考下さい)
個人的には
・実家の朝倉氏はもしかして戦国大名・朝倉氏の末裔?(通字も「景」で一緒だし)
・母方が秋田藩士というのは内輪で結婚する傾向が強い鹿児島藩士としては珍しいと思いました
・その母方「阿比留」氏ってもしかして対馬から秋田に土着した人?あのあびる優と親戚とは思いたくないがヾ(^^;)
と言う所に注目しています。
投稿日:2008-02-19 Tue
拙ブログ関連ネタ 1 2ご近況に関する情報が入りました。
しかもなんと鹿児島と遙か離れた北海道から
薩摩の若殿、帰郷 島津忠裕さん 「北海道との懸け橋に」(02/19 08:51)http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/76857.php
NHK大河ドラマ「篤姫」の放映で、脚光を浴びる薩摩(鹿児島県)の島津家。その第三十二代当主、修久(のぶひさ)さん(70)の長男で、小樽商大大学院ビジネススクールで経営学を学んでいた忠裕さん(35)=札幌市東区=が三月上旬、帰郷することとなった。島津家ゆかりの品々を展示する尚古集成館(鹿児島市)の新事業に携わるためだ。札幌での四年間の生活に別れを告げる忠裕さんは「鹿児島と北海道のつながりは予想以上。今後は両者の懸け橋になれれば」と話す。
友人らが十八日、札幌市中央区のホテルで囲む会を開き、激励した。
忠裕さんは鹿児島市出身。慶大経済学部卒業後、日本興業銀行などを経て、現在は観光事業やレジャーを手掛ける実家の島津興業(鹿児島市)の調査役。母親の伊津子さん(69)は西郷隆盛のひ孫。
上川管内上富良野町の島津家富良野農場(島津農場)の調査などのため、二○○四年二月に東区に移り住んだ。調査の傍ら、○五年四月からは札幌学院大大学院で都市計画を学び修了。同ビジネススクールには昨年四月から在籍し、集成館リニューアルに伴う新プロジェクトのため中退し故郷に帰ることになった。
学生時代、車で一カ月間道内を回ったり、新婚旅行先にも北海道を選んだという忠裕さんは「北海道は水がおいしく、本当に住みやすい。大雪の一昨日には、『転び納め』をしました」と笑う。
リンク先には写真が載っています。気になる方は2,3日中にどうぞ。
前のかなりちっさい写真を見たときには曾祖母の伊楚子女史(徳大寺家出身)に似ていると思ったのですが、今回見たら伊楚子さんには似ていませんね。やっぱり西郷家の血が強く出てると言うか。吉之助氏(非 隆盛)にそっくりですな。
ところで
あいさつの中で、忠裕さんは「ドラマでは、お守り役の女性が自殺するなどショッキングな内容もありますが、あれは脚色。半分はドラマと思いながら見てください」と話した若君 今更手遅れです。
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